1円もかけずに定着率を劇的に変える「存在承認」の力【三上康一講師コラム】


1円もかけずに定着率を劇的に変える「存在承認」の力
執筆講師

株式会社ロードサイド経営研究所代表取締役
■労働力を「買う」時代の終焉
少子高齢化に伴う労働力人口の減少は、もはや一時的な波ではなく、我々が直面し続ける構造的な課題となりました。この深刻な人手不足を前に、多くの経営者が「他社より10円でも高い時給」「他社より手厚い諸手当」といった、いわば「条件の積み増し」という消耗戦に追い込まれています。
しかし、私はあえて問いたいのです。我々は、戦う土俵を間違えてはいないでしょうか。
現代の働き手が、職場に対して最も強く、そして密かに求めているもの。それは、銀行口座に振り込まれる数字以上に、「自分という人間を、正しく認めてくれる場所か」という一点に集約されます。
かつての高度経済成長期のように、労働力を「替えのきく部品」や「数」として捉え、金銭という潤滑油で回していくモデルは完全に崩壊しました。人は、自分を「一人の人間」として、その背景も含めて丸ごと受け止めてくれる場所にしか、自身の貴重な時間と情熱を預けようとはしません。
本稿では、莫大な予算をかけずとも、今日この瞬間から始められる「承認」のあり方について、人手不足を根本から解決するための処方箋としてお伝えします。

■「人間」として扱うか、「コスト」として扱うか
先日、ある企業の特集をテレビで目にしました。その企業では、社員の「帰省費用」の一定割合を会社が負担しているのだといいます。ここで注目すべきは「支出した金額」の多寡ではありません。その制度の裏側に流れる「経営者の視線」の質です。
その経営者は、社員を「会社のために利益を生むための駒」とは見ていません。一人ひとりに故郷があり、大切にすべき家族があり、守るべき生活がある。そうした固有の人生を歩む一人の「人間」として、社員を定義しています。帰省費用の負担という制度は、その「リスペクト(尊敬)」を可視化した、1つの表現方法に過ぎないのです。
大切なのは、多額のお金を出すことではなく、「あなたの人生の背景を、会社は知っているし、大切に思っている」というメッセージを、日々の仕事の中でいかに発信し続けるかです。この「視線の変化」こそが、採用難の時代において、求人票の条件を凌駕する強力な武器となります。

■理論で解き明かす「満足」の正体:ハーズバーグの二要因理論
ここで、なぜ「給与」だけでは不十分なのか、そしてなぜ「承認」が不可欠なのかを、経営学の古典的な理論であるハーズバーグの「動機づけ・衛生理論(二要因理論)」を用いて整理してみましょう。
臨床心理学者フレデリック・ハーズバーグは、仕事における満足と不満足を引き起こす要因は、決して背中合わせの一枚板ではないことを突き止めました。
1.衛生要因(不満足に関わる要因)
給与、福利厚生、対人関係、物理的な作業環境などがこれに当たります。これらが不足すると、社員は強い不満を抱きます。しかし、重要なのは「これらをいくら充実させても、不満がなくなるだけで、積極的なやる気(満足)にはつながらない」という点です。給与アップは、いわば「マイナスをゼロにする」ための施策に過ぎません。
2.動機づけ要因(満足に関わる要因)
仕事そのものの面白さ、達成感、責任の拡大、そして「承認」です。これらが満たされることで、人は初めて「もっとこの会社に貢献したい」「より良い仕事をしたい」という自発的な意欲、つまり「満足感」を抱くようになります。
人手不足に悩む多くの企業が陥っている罠は、不満を解消するための「衛生要因(給与や休日)」の改善ばかりに躍起になり、肝心の「動機づけ要因(承認)」を置き去りにしている点にあります。
「帰省費用の負担」という制度も、単なる事務的な手当として渡せば、それは「衛生要因」の域を出ません。しかし、そこに「あなたの背景を大切に思っている」という経営者の真摯なメッセージが添えられることで、それは強力な「動機づけ要因(承認)」へと昇華されるのです。

■「存在承認」という、最強の非金銭的報酬
人が定着し、活気に満ちている組織には、共通して「存在の承認(ビー・アクノレッジメント)」が文化として根付いています。承認には2つのレベルが存在します。
1つは、「結果」の承認です。これは、目標を達成した、大きな契約を取ったといった「成果」に対して与えられるものです。ビジネスにおいて不可欠ですが、結果が出なくなれば居場所を失うという恐怖と隣り合わせでもあります。
もう1つが、今回の核心である「存在」の承認です。これは、成果が出る以前の段階、つまり「その人がそこにいること」そのものや、日々の「プロセス」、あるいは仕事に向き合う「姿勢やこだわり」を認めることです。
「あなたが今日、笑顔で出勤してくれただけで、職場の空気が明るくなるよ」
「あの時、誰に言われるでもなく備品を補充してくれたよね。助かったよ」
こうした、一見すると業績には直結しないような些細な振る舞いに光を当てること。これが「存在の承認」です。この承認が積み重なると、社員の心には「心理的安全性」という土台が築かれます。
お金をかけられない企業こそ、この「動機づけ要因」としての「存在の承認」を、誰よりも使いこなすべきなのです。

■明日から1円もかけずにできる「3つの具体策」
「承認が大事なのはわかった。では、具体的に明日から何をすればいいのか」と問われれば、私は以下の3つのアクションを提案します。これらはすべて、今すぐ実行可能で、かつ費用は1円もかかりません。ハーズバーグの理論に即した「動機づけ」の実践です。
1.「名前のある個人」として、背景に関心を持つ
まずは、社員を「営業担当」「事務員」といった役割(衛生要因的な人間関係)で見るのをやめ、名前のある個人として扱うことから始めます。
朝の挨拶に一言、付け加えてみてください。「最近ご両親の体調はどうですか?」「お子さんの入学式、無事に終わりましたか?」といった、その人の仕事以外の背景への「関心」を示すことです。
自分のプライベートや家族のことを気にかけてもらえていると感じたとき、人は「自分は単なる労働力ではなく、一人の人間として大切にされている」という実感を強く持ちます。これが「存在の承認」の第一歩です。
2.「時間の融通」という、血の通った配慮
中小企業において、長期間の休暇制度を作るのは難しいかもしれません。しかし、「柔軟な配慮」という点では中小企業に分があります。
例えば、家族の急な発熱や、どうしても外せない行事があったとき、経営者が「それは大変だ、仕事はいいから早く帰りなさい」と快く送り出す。
これは、単なる「労働条件の整備(衛生要因)」を超えた、社員への信頼とリスペクトの証です。「自分の生活を尊重してもらえている」という実感は、仕事に対する責任感という内発的な動機づけを強く刺激します。
3.「ありがとう」の解像度を上げる
多くの職場で交わされる「お疲れさま」という言葉。これらが形式的な「音」になってしまってはいませんか。
承認の力を最大化するには、感謝の「解像度」を上げることが不可欠です。「今日の会議でのあの資料、数字の根拠が明確で非常に分かりやすかったよ。準備が大変だったろう、ありがとう」と、具体的に何が良かったのかを言語化してください。
自分のこだわりが「正しく評価(承認)」されたと感じたとき、人は「次もさらに良い仕事をしよう」という自己実現のサイクルに入ります。

■結び:鏡としての経営
最後にお伝えしたいのは、「経営は鏡である」ということです。
経営者が社員を「替えのきくコスト」として見れば、社員もまた会社を「いつでも乗り換えられる給料袋」として見るようになります。これは、双方が「衛生要因」の不満解消だけに終始する、不幸な関係です。
逆に、経営者が社員を「かけがえのないパートナー」として承認すれば、社員もまた、会社やその先にいるお客様を大切に思うようになります。
人手不足という荒波の中で、生き残る組織とはどのような場所か。
それは、鏡がその人の姿をありのままに、美しく映し出すように、働く一人ひとりの「自分らしさ」を正しく映し出し、「ここでなら自分を預けられる」と確信させる組織です。
求人広告の文面を直す前に、まずは隣にいる社員の顔を見て、その背景に思いを馳せてみませんか。そこから、あなたの会社の「選ばれる理由」が、静かに、しかし力強く動き始めるはずです。

執筆講師

株式会社ロードサイド経営研究所代表取締役



