岩村 明憲 いわむら あきのり
岩村明憲いわむらあきのり)氏プロフィール
略歴
宇和島東高時代には2年生時から全日本高校選抜の4番を務め、3年生時の県大会では準決勝で松山商に敗れた。1996年のドラフト会議でヤクルトスワローズから2位指名を受け入団。
プロ1年目となる1997年は一軍出場無しに終わったが、2年目にはプロ初出場を果たし、2000年にはレギュラーに定着、初のゴールデングラブ賞も受賞した。2001年に「ミスタースワローズ」の象徴でもある背番号「1」を継承し、自身初のオールスターゲームにも出場。日本シリーズでは優秀選手賞に選ばれ、4年ぶりの日本一に大きく貢献した。
2004年には44本塁打、103打点(ともにリーグ3位)の好成績をマーク。シーズンオフに行われた日米野球でも好成績を収めた。2006年に第一回WBCの日本代表に選出され、準決勝以降はケガで欠場するもラウンド2までは毎試合安打を記録するなど日本の第1回大会優勝に貢献した。
また、シーズン終了後にポスティング・システムを利用してタンパベイ・デビルレイズへ移籍。移籍初年度からリードオフマンとして活躍すると、翌2008年には球団史上初のポストシーズン進出、地区優勝、リーグ優勝、ワールドシリーズ進出に貢献。プレーだけでなく若手の多いチームで精神的支柱としても大活躍した。
2009年には2大会連続でWBC日本代表に選出され、チーム最多の7得点を記録するなど日本の大会2連覇に大きく貢献した。しかしシーズンの途中にケガで調子を落とすと、シーズン後にトレードでパイレーツへ移籍。
翌年にはアスレチックスに移籍するも、2011年からは日本に復帰。楽天、ヤクルトでプレーした後、2015年からBCリーグに新規参入した福島ホープスの選手兼任監督に就任。後期はBCリーグ史上初の新規参入1年目での地区優勝を果たした。またシーズン終了後の11/1からは福島の球団代表に就任。
2016年から球団代表兼監督兼選手、そしてプロ野球解説者の四刀流で活躍し、選手としては2017年シーズン終了をもって引退。2019年からは球団オーナーとして経営状況が悪化した球団再建に取り組み、球団名を「福島レッドホープス」に改名。引き続き監督として指揮を執りながら、野球振興と福島の復興支援に尽力している。
球歴
球歴 宇和島東高校 (1996年度ドラフト2位)
ヤクルトスワローズ(1997~2006年)
タンパベイ・デビルレイズ・タンパベイ・レイズ (2007~2009年)
ピッツバーグ・パイレーツ(2010年)
オークランド・アスレチックス(2010年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2011〜2012年)
東京ヤクルトスワローズ(2013〜2014年)
福島ホープス(2015年〜/選手兼任監督)
福島レッドホープス(2019年~/オーナー兼監督)
第一回ワールド・ベースボール・クラシック 日本代表(2006年)
第二回ワールド・ベースボール・クラシック 日本代表(2009年)
NPB通算成績 1194試合 1172安打 193本塁打 .290打率
MLB通算成績 408試合 413安打 16本塁打 .267打率
ベストナイン 2002年、2006年
ゴールデングラブ 2000~2002年、2004〜2006年
オールスター出場 2001年、2004〜2006年
月間MVP:1回 (2004年8月)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (2001年)
オールスターゲーム優秀選手賞:1回 (2006年第1戦)
講演テーマ
「何苦楚魂」私の野球人生。野球を通じて学んだ事、伝えたい事。
講演概要:
日本代表でのWBC連覇や、デビルレイズ(現レイズ)でのリーグ優勝など、チームの主軸として世界で活躍してきた岩村明憲。彼の野球人生は順風満帆だったように思えるが、プロ入団当初はなかなか結果が出なかった。
当時コーチだった中西太氏が彼のヘルメットの内側に書いた『何苦楚』という言葉。「人生は何ごとも苦しい時が自分の楚(いしずえ)
を作るのだ」という言葉を胸に刻み活躍してきた岩村。
異国の地でただ一人の日本人が若いメジャーリーガー達を引っ張り、弱小球団デビルレイズを球団史上初の地区優勝、リーグ優勝そしてワールドシリーズ進出に導いた。また故郷、愛媛で自らの経験を伝えるために仲間のプロ野球選手らと結成したプロ野球愛媛県人
会での活動など。
そして現在、オーナー・監督として福島レッドホープスで福島の希望となるべく活躍する、岩村明憲の野球から学んだ人生、伝えたいことをお話し致します。
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